シールの歴史
我が国ではじめて「シール印刷機」を使って「シール」がつくられたのは大正元年(1912)である。動機となったのは英国のジョージ5世の戴冠式に、明治天皇の御名代として伏見宮殿下が渡英の折に宮内省から贈り物の貼付シール用に外国製シールの見本を提示され、この通りの物を作るようにとの注文を受けたことであった。
その見本というのが、明治37,8年の日露戦争に際して、英国皇室よりお祝いの賜り物に貼付されていたもので、印刷と浮き出しを伴い、裏糊付し、抜き縁に微かなインキ着色がしてあるシールであった。菊の御紋章を浮き出して、抜き縁に微かなインキ着色のシールには頭をかしげたものである。
当時は手動式特殊高級印刷機(ネコ・ダルマ)で浮出し、盛り上げ印刷をする技術はすすんでおり、稼動していたので、菊の御紋章の浮出しはお手のものであったが、抜き縁に微かなインキ着色ができなくて、僅か、200枚の注文になんと数千枚も印刷してから、のぞき抜き加工をして、選びに選んで、やっと納めたという苦い経験からドイツ製シール印刷機を輸入し、これを使って印刷をはじめたといわれている。
戦前および戦時中は数社の印刷機メーカーが外国製のシール印刷機を手本に国産化したが、シール印刷業者も統制下、乏しい資材を工面し、家内工業的下請産業として生産を続けた。昭和16年(1940)当時は僅か40数社、その多くが戦災あるいは応召により罹災もしくは転廃業を余儀なくされたという。
戦後、経済の復興成長とともに昭和31年(1966)「東海シーリング印刷工業会」が誕生した。昭和35年(1960)には一層の発展へと「東海・北陸シーリング印刷協同組合」の組織となる。
同年に業界は欧米に視察団を派遣し、それを契機に「セルフラベル」(粘着ラベル)が国産化されるようになった。
昭和36年に全国各地の協同組合の上部団体として「全日本シール印刷協同組合連合会」が設立され、感圧性接着シール・ラベルを総括して「セルフラベル」の呼称で組合が実用新案を獲得、昭和37年より組合組織による特許の共同管理運営を行うようになった。
「セルフラベル」用原紙の国産化進むにつれ、その特殊性と簡便さがユーザーの支持を受け、市場は急速に拡大、業界は毎年15〜20%の伸長をとげた。業者数も急激に増加し、昭和45年には全国組合員数約600、アウトサイダー約400といわれた。
昭和48年末の第一次オイルショックに起因する構造不況の慢性化に加えて、セルフラベル特許権が昭和51年に失効し、業界は二重の試練に見舞われ、需要の停滞と新規参入業者による価格競争の激化をもたらした。